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  浮遊するイメージ
 

水面に反射する光がセーヌ川の夜の闇とのコントラストのなかで、対岸からこちらに広がっている。それは、水面の反射によって様々な色を発しながら、複雑な光のスペクトルになっている。カメラはこの水面に浮かぶその光の集合を、瞬間的に固定し、イメージとして私たちの前に出現させた。であるにもかかわらず、それは全く異なったものとして、いうなれば光と影が溶け合ったような印象を私たちに与える。あるいはたんなる反射光というよりも、川の流れのなかでそれ自体が何らかの形をもった光のイメージのようにも見える。まさにこのセーヌに映し出されたスペクトルのイメージは浮遊する光のように見る者のまなざしを闇に表れた光に向けさせるだけではなく、その闇に隠された時間の深淵へと導くのである。それによって私たちの記憶や感覚は浮遊する時間の流れのなかへと引き込まれてしまう。果たしてその時私たちはこの浮遊する光に如何なる記憶のかたちを与えることができるのであろうか。 

 
 

 本作のシリーズで主題となっているのはまさしく「光」である。そもそも芸術の発見は光の発見にある。私たちは光を魅惑的な絶対的力とみなすことによって、ある場合には、イカロスの神話のごとく太陽の光を求め、またある場合には光を神の象徴として崇めてきた。さらには、ヨーロッパにおける絵画の起源の伝説を思い出すこともできる。大著『博物誌』を記したローマの大プリニウスによれば、「〔絵画の起源について〕すべての人々が一致しているのは、それは人間の影の輪郭線をなぞることから始まったということ、したがって絵はもともとこういうふうにして描かれたものだということである」という。人類はこうした光とのかかわりのなかで芸術を生み出してきたのである。
  光の発見とはまた、同時に闇を克服することでもあった。大都市パリは、光を文明の象徴とすることによって、発展を遂げてきたといっても過言ではない。都市計画において、闇は光を包み込み、影は物陰とともに危険を誘発する地帯として考えられるようになり、夜間には様々なイルミネーションが、闇の訪れない光の地帯を作り出している。おそらく光と闇の対立は、文明の発展がたどるべき道なのであろう。人類最古の芸術といわれている洞窟壁画は、洞窟という暗闇のなかで火の光を頼りに描かれたものであり、それは人間としての初めての所作として、また芸術の起源として考えられている。
  カメラという光学装置は、まさにこうした歴史的発展のなかで誕生したものである。一般的に認められているように、写真とはカメラのレンズを通して対象からの光を固定させ、定着させることによって、その瞬間を視覚的イメージとして再現したものである。その歴史は決して古いものではなく、19世紀に世界最初の写真技法であるダゲレオタイプが発明されたのがその始まりとされている。それ以来、その写真の緻密な描写力は、移ろいゆく風景や人間の姿を固定し、所有したいという人々の欲求に答えるものとなった。フォトグラフィ[photo-graphy]とは、まさに光と影のコントラストのなかで現実を正確に再現する「光の絵」を意味しているのである。
 また写真の原理自体は、カメラ・オブスキュラとして古くから知られている。それは文字通り人間が「暗い部屋」の中に入り、そのなかで針穴から入ってくる光の像を見るものであった。それが19世紀ごろに改良されて、現在のカメラの原型となったのである。人間は暗い部屋から抜け出し、光をカメラ[camera :小さな部屋]に閉じ込めようと試みたのである。写真発明者の一人であるニセフォール・ニエプスが自分の技術を「太陽で描く」という意味の「ヘリオグラフィ(heliography)」と呼んでいたように、カメラの歴史、それは文明の歴史と同じく、永遠性の象徴しての光の歴史であると同時に、闇の克服の歴史でもあったのである。 
  17世紀には、光学的装置としてのカメラ・オブスキュラは、ルネサンスに発展を遂げた遠近法によって多くの画家たちに細部への優れた観察力を与えた。オランダの風俗絵画を代表するヨハネス・フェルメールは、静謐で写実的な迫真性のある画面をうみだすために、擦りガラスに投影されたカメラ・オブスキュラの映像をトレースして下絵として利用したといわれている。それによって彼の作品の綿密な空間構成は、従来の遠近法とは異なる(写真的)平面性と、現実では捉えきれない微妙な光の質感を生み出している。「真珠の首飾りの少女」(1665−66)の首飾りや目を拡大して細部を見てみれば、そこに下絵のブレ・ボケがそのまま表現されていることがわかる。フェルメールが描いた現実世界とは、レンズを通して目で見たのとは違った遠近感や距離感を作り出す近代の写真的リアリティの世界だったのである。
 おそらくこうした文明の象徴として写真を初めて目にした当時の人々にとって、写真の再現能力は現在の私たちには想像できないほど衝撃的なものだったに違いない。写真が視覚情報のメディアとして受け入れられるにつれ、その衝撃は薄れ、より一般的なものとして社会に浸透していった。その結果、もはやそれは、私たちの生活環境の一部となり、イメージやメッセージを通過させる透明な窓としてしか意識されなくなった。写真は約200年たった現在にいたって、変化する「現実を記録」したい人間の欲求を、より忠実に叶えることができるものとなったのであろう。
  水面に浮遊する一瞬の光が映し出されたこの写真は、パリのネオンを反射するセーヌ川の光として理解することができるであろう。もちろんその光は、写真によってとらえられた瞬間的光である。つまりそのイメージは、写真によって瞬間を切り取ったひとつの記録である――それが写真である以上、その対象が如何なるものであれ、私たちにはそれだけははっきりしている。だが実際には私たちはそれらの光を見ることはできない。水面に反射し浮遊する光は、一瞬たりとも留まることなく、絶えず形を変え、変化しているのである。言うなれば人間自身には決して見ることのできない光がカメラのフィルムに定着されている。写真には見えないものが写しだされているのである。それは、写真に写された光でしかないにもかかわらず、私たちはそれを現実的な光として暗黙のうちに認識してしまっているのである。
  ではいったいこの写真に写された瞬間的光とは何なのか?あるいは私たちはどのようにその光を認識しているのだろうか?簡潔に言えば、それは瞬間的光を視覚的・空間的に再現させた光、つまり写真によって空間化された記号としての光である。実際私たちは音楽を聴いたり、時間を設定したりという日常生活の様々な場面において、無意識に時間の空間化の作業を行っている。そのなかでもカメラは空間によって時間を停止させるのに最も有用な装置ということができるであろう。それによってわたしたちは時間の流れを目に見えるものとして視覚的にとらえることに慣れてしまった。言うなれば、私たちは時間を空間化することによって、つまり水面に流れる時間を空間化することによって、形式的に光に形を与えようとしているのである。ベルクソンが語るように、「科学が運動や時間を取り扱うのは、それらからその本質的で質的な要素を――時間からは持続を、運動からは運動性を――まず最初に取り除いておく、という条件においてでしかない」(『時間と持続』)のである。
  しかしながら、こうした世界の空間的認識によって多くの錯誤が生じているのもまた事実である。たとえば、音楽を聴くとき、私たちはそれぞれの音の連続性によってメロディを感じるのであって、それを一音一音並べて聞き分けているわけではない。この一音を並べるということは、音をそれぞれ均質的に空間化(記号化)することを意味している。だが本来私たちは空間−時間の相互的な関係のなかで生きているのであり、ア・プリオリな空間認識あるいは空間化の設定とは、私たちにとってそこに質的変化や時間の流れを生み出すための根拠として存在するものでしかない。実際私たちは無意識に、空間的認識における物事の変化を感覚的に捉え、それと同時にそれまでのすべての過去の痕跡のなかで現実をよみとっているのである。
  この作品が試みているのは、まさにこうした写真におけるリアリズムへの反駁にある。もちろんここで写真=痕跡というわけではない。一切の写真が痕跡であるという考え方は、写真の再現性という特性を無視することになる。写真の役割は、その瞬間の出来事の痕跡を記号化することである。つまりカメラが向けられることによって、その瞬間の出来事は、観察者や撮影者の記憶とは別に客観的事実として再現される。むしろこの作品で問題なのは、いうなれば痕跡などといった抽象的表現ではなく、リアリズムによってリアリズムを批判すること、すなわち、記録と記憶の狭間で浮遊する光のイメージを出現させることであり、これこそが一連のシリーズを通して見る者のまなざしに訴えかけてくるものなのである。
  さらにこの作品でカメラは、都市の光に向けられるのではなく、そのなかに隠された闇にも向けられている。この写真において、長い歴史のなかでパリという都市を映し出してきたセーヌ川の光は、その都市のイメージを連想させることなく、各々が侵食しあいただ暗闇のなかで反射する光のスペクトルを生み出している。それによってこの写真は、光によってイメージを形象化するというよりも、光そのものの不可視性を露呈させている。というのも、暗闇はまさに恐怖の象徴であるだけではなく、空間的に認識不可能な、まさに無規定な時間の持続を感じさせるからである。私たちはかつて克服した闇に、あたかも何千年もの歴史の流れにまなざしを向け、そのなかにある絶対的な力としての光を見出すかのように、カメラは闇のなかに再び光を見出すのである。「痕跡としてのイメージ」として写真を考える時、私たちは写真イメージに対して時間的な流れを読み取り、そこに自らの記憶をめぐらせる。そのためこの作品において、光は時間を空間化するのではなく、空間を時間化することによって、その空間の記憶を、そこに流れた時間によって把握するように私たちに訴えかけるのである。もはやこの作品においては、ニエプスの言葉――「写真は光と時間の化石である」──という写真発明以来の定義さえもあいまいなものになってしまう。むしろそれは、時間のなかに存在するもの、あるいは時間のなかから生成してくるかのようである。浮遊する光の時間のなかで、瞬間的光は、立ち現れては消えていくかのように、同時にその次の瞬間的光へと変化していくのである。その結果闇のなかに浮遊する光をとらえたこの写真は、まさに時間のなかに存在する瞬間を切り取る光のデッサンであると同時に、私たちを永遠的な時間の流れのなかに引き込むのである。私たちがこうした時間的空間のなかでそのイメージを前にした時、それぞれの形を持った光は、暗闇のなかで浮遊しながら、メタモルフォーズを引き起こし、無限に形を変え、様々な色合いを帯びるのである。

2009年7月

 

 

唄邦弘(ばいくにひろ):神戸大学大学院博士課程在籍。専門は美学・芸術学、特にジョルジュ・バタイユの美学。また2007〜2011年にかけてパリ社会科学高等研究所(EHESS)在籍、2011(1月〜3月)パリ政治学院(Science Po)に研究生として在籍。論文:「バタイユにおける人類学的イメージ」(『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3、2010)、「イメージの起源への探求―初期先史学におけるイメージの発見とその「真正性」―」 (『美学』第238号、2011年)

 

 

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